目指すのは「ヘラルボニー」の意味が拡張する未来。「聴く美術館 #2」

この春スタートした福祉実験ユニット・ヘラルボニーの契約アーティストにフォーカスするポッドキャスト「HERALBONY TONE FROM MUSEUM〜聴く美術館〜」。

俳優・映像作家・文筆家として活躍する小川紗良さんと、ヘラルボニーの代表取締役社長の松田崇弥(たかや)が聞き手となり、アートに耳を澄ませながら、作品の先に見えるひとりの”異彩作家”の人柄やこれまでの人生に触れていきます。

前回に引き続き第2回の放送では、崇弥が双子の兄の文登(ふみと)とともにヘラルボニー創業以前、そしてこれから目指す未来を語ります。

#会社員時代のこと

小川紗良さん(以下、小川):普段は崇弥さんが東京に、文登さんは岩手にいらっしゃるとのことですが、普段どういうふうに仕事をされてるんですか?

松田崇弥(以下、崇弥):今はオンラインでいろいろやりやすいので、岩手の代表が文登という立ち位置で、分けていることが多いかもしれないですね。

小川:東京でもいろんな企業の方とコラボしてお仕事することが多いと思うんですけど、本社は岩手なんですよね?

文登:そうなんです。花巻のるんびにい美術館からヘラルボニーはスタートしたっていう、その原点とかアイデンティティとかを忘れたくないなという思いも強くあったので、本社も岩手に置いています。

崇弥:岩手にはヘラルボニーがアートプロデュースしている「HOTEL MAZARIUM」というのがありまして。本当に素敵なホテルなんです。あとヘラルボニーのギャラリーもあったり、百貨店に出店していたり、自動販売機もヘラルボニーのアートになってたり、岩手のバスケットボールチームのユニフォームもやらせてもらってたりと。

小川:おお!

崇弥:岩手に基盤を置きながら、東京にも広げていっていますね。

小川:なるほど。前回の放送でも岩手県のるんびにい美術館を訪れたことが起業のきっかけだったとお話あったんですけど、以前はお2人とも違うお仕事をされてたんですよね?

崇弥:そうなんです。私は元々「オレンジ・アンド・パートナーズ」という広告の企画会社にいまして。「くまもん」の生みの親の小山薫堂さんのところで働いていました。実は小山さんがJ-⁠WAVEさんでパーソナリティをすることもあったので、当時は代理店側の人間として何度かこちらにも伺ったこともあったんですよ。それが今はここで私が喋らせていただいてるっていうのはね、もう本当に感慨深いなと思います。

小川:なるほど。文登さんはどうですか?

文登:私はもともとゼネコンにいたので、しっかりスーツを着て、住宅営業をやってました。

小川:今とは全然違うところですね!でも、そのときの営業力とかスキルみたいなのって、めちゃめちゃ役に立ちそうじゃないですか。会社をつくって広めていくって大変なわけですし。

文登:そうかもなあ。私たちはお互い会社員を4年やって起業してるんですけども、確実に言い切れるのは、大学終わってそのまま起業だったら絶対成立してないだろうなっていうのは間違いないなと。会社員のスキルっていうものが活かされる瞬間は多かったなって思います。

# ヘラルボニーが生まれた瞬間

小川:ヘラルボニーはもともと前身である「MUKU」というブランドから始まったと伺い。

崇弥:そうなんです。私たちは今31歳なんですけれども、「MUKU」を始めたのは25歳から27歳にかけてぐらいでしたね。副業としてクリエイターの仲間たちで始めました。

文登:そうだったね。

崇弥:当時は自分の作品を作りたいという思いが強かったんですけど、やっぱり会社にはクリエイティブディレクターもいてアートディレクターもいて「これが自分の作品だ」ってものがなかなか出せなくて。だから「MUKU」というブランドを通じて、いろんなものを自分たちで出そうと、仲の良い映像のクリエイターや友達と一緒に立ち上げたんです。

小川:「MUKU」がスタートしたころはどうでしたか?

崇弥:面白かったよね? 本当に毎朝、Skype会議やって。

文登:うんうん。

ワクワクがベースでスタートしていたので、「こういう世界を目指そう」っていう視点ではスタートしていないんですね。障害のある方たちの作品を見て感動して、でもネットで検索すると、あまりにも社会貢献的な価値観でしか見られていない現状に違和感があったんです。そこで、彼らの作品をより良い形で社会に届けたいと考えたときに、ネクタイからスタートしました。

小川:最初はネクタイを作ったんですね。ファッション分野なら、靴下とかジャケットとかもあったと思うんですけど、ネクタイから始まったっていうのは何か理由があるんですか?

崇弥:売れる売れないじゃなくって、それ自体がすごい作品が、どんなものに落とされてたらめちゃめちゃ感動するんだろうってまずは考えていて。それなら、シルクで、プリントではなく織りで作品を再構築するようなアイテムが展開できたら、とんでもなくかっこいいんじゃないかと思ったんです。じゃあシルクと織りで作れるものならネクタイがいいんじゃないかなと。

文登:「シルクと織りでアートを表現する」という形を通して、彼らの素晴らしい作品に敬意を払いたかったんです。彼らへのリスペクトを通じて、アートを超えるプロダクトを作るというコンセプトでスタートしようって。ただ、いざ作ろうとしたら、「あなたたちはすごい難しいことやろうとしてる」と他の会社さんに言われまして。会社としての売り上げだとかではなく、そもそも、シルクの織りで障害のある方たちのあの細かなタッチを表現すること自体が難しいと。

文登:それで「どこのメーカーさんならできますか?」と質問したら「銀座田屋」というメーカーさんなら可能性があるかもと教えていただいて。何としてでも作らなきゃいけないみたいな使命感に駆られて、山形県の米沢にある自社工房を見学させていただいて、どうしても作りたいとお願いしたんです。

崇弥:そして私の人生を変えてくれた人でもある、岩手のるんびにい美術館のキュレーターをしている板垣崇志さんにも企画書を持っていき、「一緒にやってみたい」と言ってくださって。

小川:ところで、契約のプロセスは具体的にどんな感じで進んでいくんですか?

崇弥:金沢21世紀美術館のチーフ・キュレーターをされている黒澤浩美と作品を一緒に選定をさせていただいています。その後は実際にご本人と親御さんや福祉施設の方とお会いして、ご本人たちの意志を確認しながら進めていきます。当事者の方たちが本当にやりたいのかを確認するプロセスはとても大切にしていて、企業さんとコラボする時も、必ず作家さんや福祉施設への確認を通しています。

小川:そこへの配慮はもう本当に細心の注意を払っていらっしゃるんですね。

崇弥:そうですね。そういった意味では、著作権を買い切りにせず、作家さんに帰属させることも重要だと考えています。例えば最初に作家さんに何十万かお支払いして、著作権を我々が管理して代理店などにバーっと広げる形もできるんです。それはビジネスとしては儲かるかもしれませんが、作家さんや親御さんと価値観を共有して一緒に進めていくというプロセスは踏めない。やっぱり私たちは、支援するんじゃなくて、伴走者でありたいし、反対に支援される存在でもありたいと強く意識しています。

小川:なるほど。

崇弥:本当に作家さんがどれだけ嬉しいのか、ご家族がどれだけ望んでいるのか。それがすごく重要で、お金っていうものはある種の結果でしかなくて。ごめんなさい、話が長くなっちゃいました…!

文登:ここはね、ちゃんと話したいよね。

小川:はい、とても興味深かったです!そこから「MUKU」が生まれて、さらにヘラルボニーができたきっかけっていうのはいつだったんですか?

崇弥:「MUKU」が2年目に入るくらいのころに、自分はどんどんこういうことがやりたいんだってわかってきたんですよね。NHKのテレビ番組で「MUKU」を取り上げていただいたときに、お腹にダウン症の子がいるお母さんからご連絡をいただいて。「すごく迷っていたけれど、産むことを決めました」と。その直後にネクタイがパパパンと売れて。求められていることと、自分がやりたい活動に両輪が重なった感覚があったんです。それで、突然ヘラルボニーをやろうと思い立って、夜中に文登に電話して。「俺、会社やめることにした。お前もやめろ」って言ったのをすごい覚えてます。

文登:うん、たしかに。

崇弥:なのでそのお母さんが産むことを決めたということ自体にも、ヘラルボニーとしても責任を感じるし、ヘラルボニーとしてその子がより幸せに生きていくための土壌を作っていきたいと思っています。

#ものづくりとしてのヘラルボニー

小川:2020年8月に岩手県盛岡市の川徳百貨店でヘラルボニー第1号店をオープンされてから、さらにヘラルボニーというブランドが強化されていったということで。ネクタイからスタートして、今ではインテリアや雑貨など多岐にわたっているじゃないですか。そのひとつひとつが質も高いですよね。

崇弥:本当により良い形で社会へ届けていくというのは大切にしていますね。障害のある方のアートって色眼鏡で見られやすいからこそ、ヘラルボニーで商品を買ったら本当に素晴らしいものだったと思ってもらいたいので、ものづくりそのものにもこだわっています。

小川:今は何人くらいの作家さんが契約されてるんですか。

崇弥:2022年7月時点で、153名の作家さんと契約しています。主に知的障害のある作家さんなんですが、最近はもうアメリカやタイ在住の方もいらっしゃいます。

小川:すごい!作家さんご本人やご両親の反応はいかがですか?

文登:ご両親や福祉施設の担当者さんから日々シャワーのように愛あるお手紙をいただくのですが、その一つで「これまで息子は社会に迷惑をかけているだけの存在なのではと感じていたけれど、初めて息子が誇らしく思えました」というお手紙をすごく覚えています。ヘラルボニーって銀座や大阪の一等地で展開されて、その作品を見た人が「美しい」と思ってくれて、さらに購買行動が落ちていく仕組みなので、障害者の方々が今まで見てきた景色とはまた違う景色を見られるんじゃないかと思っています。ヘラルボニーを通じて、知的障害を持つ作家さんたちが地域で生きやすくなる好循環ができたら幸せに思いますね。

#拡張する「ヘラルボニー」という言葉の意味

小川:今後ヘラルボニーとしてやってみたいこととか、ビジョンみたいなものってありますか?

文登:ヘラルボニーのミッションは「異彩を、放て」なのですが、この「異彩」がもっともっと拡張された意味に変わっていくと思うんですね。それはアートに特化しただけの異彩ではなくって、もしかしたら身体障害のある方かもしれないし、食やスポーツかもしれないし。いろんな異彩が放たれていく状態に変わっていく、そういうヘラルボニーでありたいなと思っています。

小川:崇弥さんはどうですか?

崇弥:「ヘラルボニー」っていう言葉が「誰しもが参加できる」みたいな意味に脳内変換できるような社会になったらいいなと思ってて。もしそうなったら「ヘラルボニースイミングスクール」って書いてあったら、ここは誰でも通えるんだなって。やっぱり、兄は習い事をしたいと思っても自閉症を理由に断られたりするので。「ヘラルボニー」が障害者アートってものをさらに超えて、誰もが参加できるっていう意味に拡張された世界が生まれていったらいいなと思いますね。

文登:何年後くらいかな?

崇弥:目標は20年後!ラジオ局もね、J-WAVEさんに負けないぐらいのをね、作りたい(笑)。

小川:気づいたらライバルに(笑)!

崇弥:いやいや、やっぱり一緒にやらせてください(笑)。

小川:いやでも本当に素敵ですね。最初はお兄さんの自由帳にあった意味がわからなかった「ヘラルボニー」という言葉が、会社の名前になり、さらにそれがもっと広がった概念になっていくかもしれないっていう。

崇弥:そうなったらいいですね。

文登:これを聞いてくださってる皆さんとも、一緒につくりあげていけたら嬉しいですよね。

小川:次回からは作家さん本人にお越しいただいて深堀りする時間になっていきます!いよいよ作家さんとお会いできるということで楽しみです。

崇弥:ですね! J-⁠WAVEさんは六本木ヒルズにございますんで、ここに福祉施設に普段いる方が実際いらっしゃって、一緒に収録できるこの光景自体をすごい見たかったというのもあって。この素晴らしい景色をこれから一緒に作っていけるのが嬉しいなと思っています。

text 赤坂智世/photo 鈴木穣蔵

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「アートから想像する異彩作家のヒストリー」をコンセプトに、アートに耳を澄ませながら、作品の先に見えるひとりの”異彩作家”の人柄やこれまでの人生に触れる番組です。

役者・映像作家・文筆家として活躍する小川紗良さんと、ヘラルボニーの代表取締役社長の松田崇弥の2名がMCを担当。毎回、ひとりのヘラルボニー契約作家にフィーチャーし、知的障害のある作家とそのご家族や福祉施設の担当者をゲストにお迎えしています。

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