【内田也哉子✕黒澤浩美】みんなから「いいね」を集める作品なんて幻想だ。説明過剰な時代に芸術ができること
文筆家として活躍する内田也哉子さん。幼いころから美術に惹かれ、母・樹木希林さんの親交も縁に、さまざまな芸術家との交流があったそう。現在は、独創的な美術作品を生み出すアーティストを紹介する番組『no art, no life』(NHK Eテレ)のナレーションを担当。また2024 年 6月には、長野県の戦没画学⽣慰霊美術館・無⾔館の共同館主に就任されています。
前編に引き続き、内田也哉子さんと、⾦沢 21 世紀美術館 チーフ・キュレーターであり、HERALBONYのアドバイザーも務める黒澤浩美さんが「芸術」という言葉について哲学していきます。
>>前編はこちら:「わかる」よりも「ぐっとくる」。体と魂で遊ぶ芸術との向き合い方
「これは芸術ではない」? なぜ境界線を引くのか
内田也哉子さん(以下、内田):子どものときから母に連れられてさまざまな美術館に行きましたが、私が初めて自分でお金を払って行ったのは高校生のとき、スイスのアール・ブリュット・コレクション(※)だったんです。
(※アール・ブリュット・コレクション:特別な芸術教育をうけず、技法や様式などの既成概念にとらわれない人々がつくりあげる芸術「アール・ブリュット」の美術館。障害のある作家たちの作品も含まれている)
そのとき「アール・ブリュット」とは何か、詳しく知っていたわけではありませんでした。高校で美術コースを選択しており、先生から勧められたので休日に行ってみたのですが、そこにある作品のものすごいエネルギーに打ちのめされました。思春期の一番多感な時期だったからか、形、色、素材、すべての表現からあらゆる刺激を受けて。それから週末に何度も足を運ぶようになりました。だから私にとっては「障害のある作家たちの芸術」を知ったのではなく、とにかくすごいものに出会ってしまった経験として強く残っていたのです。
ところが『no art, no life』のナレーションをすることになったとき、友人に話したら「私はそういうものを芸術とは思っていないし、興味がないんだよね」と言われて、大きなショックを受けました。友人はアメリカの優秀なアートスクールを卒業していたので、一定の芸術教育を受けてきた人こそがアーティスト、という考えがあったのかもしれません。ただ私にとって、想像を超える美しさやエネルギーを感じさせてくれるもの、迷うことなく「芸術」だと思っていたものについて、「それは芸術ではない」という価値観が存在しているということが衝撃でした。今も、友人にどのように返せばよかったのか答えが出ません。
黒澤浩美さん(以下、黒澤):そうでしたか。前提として、個人の「好き・嫌い」と、社会におけるバウンダリー(境界線)の話は違います。そもそも好みは人の自由です。内田さんのご友人が「あんまり好きじゃない」という意味でそのようにおっしゃったのだとしたら、それに対して「なぜこの作品の良さがわからないのか」と迫るのも、おかしなことになってしまいます。「そうか、あなたは好きじゃないのね。私は好き」というだけの話。でも、内田さんが引っ掛かっているのは、ご友人の言葉から「好き・嫌い」の話とは異なるニュアンスを感じたのでしょうか。
内田:そうです。芸術の訓練を受けていない、いわゆるアール・ブリュットやアウトサイダーアートというジャンルを芸術だと思わない、というようなニュアンスだったので、一体どうしてそこに「これは芸術で、これは芸術ではない」というような境界線ができてしまうのだろうと不思議だったのです。
テクニックを駆使した「丸」と、呼吸のような「丸」
黒澤:ひょっとしたらご友人は、訓練を積み重ねることによって自分の表現をコントロールできるようになる、そんなテクニックの有無に重きを置いているのかもしれませんね。芸術を大学などの教育機関で学ぶ学生は、毎日デッサンをして技術を磨き、ひとつのものを描写する力、自分の描きたいように描ける力を高めていくわけです。対して、前編でお話に出た横尾忠則さんの例のように——横尾さんは訓練を積み重ね、高い技術を身につけていらっしゃいますが——特段「これを描かねばならない」というような意志と共に、呼吸するような自然さで表現している人たちがいる。この違いに対して敏感な人はいるかもしれない。
内田:なるほど。でもそれって、表現の結果を見て、どのように違いが出てくるのでしょうか? たとえば「これを描きたい」と一生懸命研鑽を重ねて、構図やデザインを工夫し、ようやくたどり着いた一筆書きの「丸」と、毎日毎日同じ丸を描き続けている人が今日描いた「丸」。その2つの丸を比べてどちらが良いと判断できるのかな。比べるまでもなくどちらも尊いと思うのですが。
黒澤:2つの丸を並べて「あなたはどちらが好きか」という好き・嫌いの比較をすることはできますよね。でもその丸に向き合ってきた人の営みそのものには、どちらが良い・悪い、またはどちらかが芸術に値するかというような境界線を引くことはできません。……丁寧に説明すれば、ご友人もわかってくれるのではないかしら。
内田:もう、そのときはショックでショックで、そのまましょんぼりして帰ってきちゃって(笑)。でも、たしかにおっしゃるとおりですね。好き・嫌いはそれぞれ自由なもの。そこに違いが生じるからこそ、面白いんですよね。みんなが同じものを見て「これいいね」と言っている世界なんて幻想だし、つまらないもの。
黒澤:違いを楽しむ、リスペクトすること。作家には、強いこだわりをもっている人もいます。たまたま障害者とは呼ばれていない、診断を受けていない人もいる。それを知ったとしても、作品を観るのに何か影響するでしょうか。
気をつけなければいけないのは、作品について伝える側、つまり私たちキュレーター側です。たとえば作品について説明しようとすればするほど、ある枠組みのなかに作家や作品を押し込めてしまうことがある。既存のグルーピングを瓦解していきたいと思って展覧会をつくるのに、その展覧会の冠によくあるラベルをつけてしまえば、二重にグルーピングしてしまうことになります。性別による境界をなくしたいと思っている人が、女性の作家を取り上げて「女流作家特集」と名前をつけてしまうようなことが起きていないか。あたかも伝えているように見せて、一段高い不自由さをつくっているだけではないか。そのあたりは、もう少し注意深く考えていかないと、と思っています。
どうやっても「私」は脱げない
内田:黒澤さんは、今年行われた国際アートアワード「HERALBONY Art Prize 2024」で審査員をされていましたよね。2000点近い応募作品が集まったと聞きました。審査のときには作品をどのような視点で選ぶのですか?
黒澤:「審査員としての私に何が求められているのか」を随分考えました。そもそも美術館のキュレーターは、自分の好き・嫌いではなく「この作品を未来に残していくべき」という視点で作品に優劣をつけなければならない職業です。美術館は作品をコレクションして、後世に引き継ぐ場。保存・管理できる数には上限がありますから、どの作品を収蔵するのか、しないのか、つまりどれが未来に残していくべき価値のある作品なのかを決めなければならない。もっとも難しく非情なところです。
今回の「HERALBONY Art Prize 2024」は新たに創設されたアワードだったので、今回の審査が、今後のアワードの基準をつくることにもなります。もちろん作品に向き合ってきた人たちの営みに優劣をつけることなどできません。それでも選ばなければいけない。
内田:すごい責任ですよね。
黒澤:ちょっと嫌な汗をかきました(笑)。最終的に私が審査員特別賞で選んだのは、他の作品とは少し違う「視点」のあるものだったんです。
写真を使っているのですが、いまはみんなスマホで簡単に写真を撮影できるから、膨大な数の作品が世の中に生まれていますよね。それでもこの作品はちょっとした視点の違いで「街がそんなふうに見えたら面白いね」と思わせてくれたのです。
内田:審査員はたくさんいらっしゃったの?
黒澤:2次審査は4人でした。
内田:えー! たった4人で。それも責任重大ですね。審査員のみなさんの、選ぶ基準は共通していたのですか?
黒澤:みんな違いましたね。東京藝術大学長の日比野克彦さんは、ご自身がアーティストでもあるから「自分もこんな作品をつくってみたい」と思うものを選んでいたようです。
内田:へえ〜。面白いですね。審査にあたり黒澤さんは「私に何が求められているのだろう」と自問自答されてきたけれども、最終的には「自分が『今までにない視点で面白い』と思えるような、心が動くものを素直に選べばいいんだ」というところまで行き着かれたんですね。
黒澤:そう。そこにいくまでに、ちょっと迷走はしたんですけど(笑)。やはり「私」って脱げないんですよね。肩書きだけではなくて、今日まで一日一日過ごしてきた私の全部が「私」をつくっているから。
「芸術は鏡」そして「芸術は寛容であるもの」
内田:芸術とは鏡のようなもので、ある作品と対峙すればするほど、自分のなかが見えてくる。またその先にいくと、鏡が窓になったり扉になったりして、別の世界につながっているかもしれない。前編で黒澤さんがお話されていましたが、特に絵や彫刻は「言語化できないからこそ」色や形や物体になっているわけです。芸術という覗き穴を使えば、何事も説明過剰になりがちなこの世界から、良い意味で現実逃避をしたり、自分たちの営みを俯瞰してみたり、あるいは覗いてみたりといったことができるかもしれない。
そう考えてみると、HERALBONYはカンパニーというハードなものでありながら、同時にその輪郭線がかちっと引かれているのではなく、絶えずゆらめいている、はためいているような印象があります。
黒澤:芸術は、寛容でなければいけないと思うんです。とにかくやってみる、というようなことを受け入れる。間違いなんてない。「障害とアート」というような切り出し方はHERALBONYの一部分であって、その本質は、社会の寛容度を上げていくことに取り組んでいる集団だと思うんです。目指すべきところは、そういうHERALBONYという存在が「ちょっと社会を変えそうだ」と思ってもらえることでしょうね。
内田:職業としてはカテゴライズや価値決めをしなければいけない立場である黒澤さんが、これだけ自由に芸術というものを捉えていらっしゃることが、なんだかとても嬉しかったです。
黒澤:長く美術館でキュレーターをやっていると、おこがましい言い方なのですが、仕事の多くが「わかる」ようになってしまう。でもHERALBONYは「わからない」ことが多すぎる。それがとっても楽しくて!
内田:「わからない」ということは面倒なんだけど、実はとても魅力的なんですよね。はっきりとあるゴールに向けて一直線に進むのではなく、曖昧さ、わからなさを許容しながら、面白いこと、魅力のあるものに身を委ねて、すすんで寄り道をしていく。そんなHERALBONYの歩みはやはりとても魅力的だし、寄り道の途中で、私も何か関わりが持てたら嬉しいです。