【内田也哉子✕黒澤浩美】「わかる」よりも「ぐっとくる」。体と魂で遊ぶ芸術との向き合い方

文筆家として活躍する内田也哉子さん。幼いころから美術に惹かれ、母・樹木希林さんの親交も縁に、さまざまな芸術家との交流があったそう。現在は、独創的な美術作品を生み出すアーティストを紹介する番組『no art, no life』(NHK Eテレ)のナレーションを担当。また2024 年 6月には、長野県の戦没画学⽣慰霊美術館・無⾔館の共同館主に就任されています。

様々な領域で活躍するオピニオンリーダーの皆様と「言葉の哲学」を紡ぐ連載「HERALBONYと言葉哲学」。第5回は、内田也哉子さんと、⾦沢21世紀美術館 チーフ・キュレーターであり、HERALBONYのアドバイザーも務める黒澤浩美さんが「芸術」という言葉について哲学していきます。

母・樹木希林の辿った旅路を巡り、出会った美術館

黒澤浩美さん(以下、黒澤):『no art, no life』のナレーションがとても素敵です。どの作家さんに対しても、愛のある眼差しを感じます。

内田也哉子さん(以下、内田):ありがとうございます。2023年末放送の『朝までno art,no life』に、HERALBONY代表の松田文登さん、崇弥さんが出演してくださったのですよね。恥ずかしながら、そのときに初めてHERALBONYの存在を知りまして、以降WebサイトやInstagramを拝見しています。世界中を見渡しても、唯一無二のカンパニーですよね。交流のある是枝裕和監督がよく、“壮大なテーマを描きたいときには、自分にとって最もリアリティーのある題材を深く掘るんだ”とおっしゃいます。文登さん、崇弥さんの自閉症のお兄さまへの想いが原点であるHERALBONYも、まさにそのような活動なのではないでしょうか。

そういえば、フランスの大学院に通っている長女から、9月にパリで開かれたHERALBONYの展示会を観に行ったと連絡がありました。私も観に行きたかった、と羨ましく思っていたところです。

黒澤:そうですか! それは嬉しいです。

今日は「芸術」という言葉がテーマですが、内田さんは6月に長野県の無⾔館(※)の共同館主に就任されています。私は長野県出身で、無⾔館には以前に何度か伺ったことがあるのです。山中にひっそりと建つ美術館で、静けさのある佇まいが美しい美術館です。美術館のおかれた環境と相まって、静かに作品や自分と向き合える場所だと感じました。
※戦没画学生慰霊美術館「無言館」は、芸術の道を志しながらも戦争によって若くして命を落とした戦没画学生たちの作品や資料を展示する長野県にある美術館。1997年の開館より館主を務めてきた窪島誠一郎氏に加えて、2024年6月より内田也哉子さんが共同館主に就任している。(写真提供:無言館)

内田:母が亡くなってから一年が経ったころ、生前辿った旅路を私が巡るというテレビ番組があり、そのとき初めて無言館を訪れました。まるでスイスの山奥に数百年もたたずむ小さな教会のようだなと思ったのを覚えています。館長の窪島誠一郎さんとはその後、著書『BLANK PAGE 空っぽを満たす旅』で対談もさせていただきました。交流を深めるなかで「この稀有な美術館を共に未来につないでくれないか」とお誘いを受けて、共同館主を拝命しました。

(写真提供:無言館)

「すぐさま140文字を打ち返す」反射神経の弊害



内田:今日は「芸術」という大きな言葉をテーマに語らうということで、少したじろいでいますが、黒澤さんにぜひお考えを伺ってみたかったことがあります。

無言館は戦争で亡くなった画学生の遺した絵画や彫像を窪島さんが三年かけて全国のご遺族を訪ね収集し、私財を投じて27年前に設立されました。展示されているのは画家になる前の卵たちの作品ですから、窪島さんいわく「技術的には未熟な作品」とも言えるそうです。しかしその未熟さ、青春のさなかにいる彼らの、生命力あふれる表現に強烈に胸を打たれることがある。そうした作品の魅力や力強さを若い世代の人たちに伝えていきたいのだけど、一方で現代を生きる人たちにとって“未熟なまま”命を終えるしかなかった彼らのストーリーばかりに強烈にスポットが当たってしまうと「かわいそうだった」と重く受け止めるしかなくなってしまいます。

“戦争によって夢を絶たれた、かわいそうな人たちの絵”ではなく、たとえ技術的に未熟であってもひとつの芸術作品として向き合いたいし、向き合ってほしい。窪島さんにはそのような葛藤があるように思います。私も共感するのですが、黒澤さんはどう思われますか。

黒澤:芸術やアートと聞くと「美術教育を受けて、技術を磨いてきた人がプロである」と考える人が多くいます。でもそうした“正規のルート”を歩まない、すばらしい表現や作家がこの世にたくさん存在しているのです。周りの人が誰ひとりとして「いいね」と言わなくても、自分にとっては大切だと思える作品もある。窪島さんが作品を収集されたのも、きっと画学生たちの表現に強く魅了されたからでしょう。一方で、戦争という「枠」、無言館という「枠」に作品がはまっていってしまうというのなら、ときには枠から開放するのも必要なのかもしれません。

内田:窪島さんは「年に一度でもいいから、絵の下にあるキャプション(いつどこで戦死したか、享年何歳といった情報も書かれている)を全部隠して、その状態で観てもらう機会をつくったらどうか」とおっしゃっていました。それも「枠」から開放するひとつの方法ですね。

黒澤:普段は画学生の絵をたくさん並べているのだけど、ある日は一枚の絵のみを展示する、なんて方法もあります。そのたった一枚の絵を好きなだけ眺めていることもできるし「ピンとこないな」と思ったらさっさと帰ってしまってもいい。美術館の展示は、観る側に時間の自由が与えられているのがいいところです。

たくさんの絵をまんべんなく見て“総体”としての無言館をとらえるのではなく、自分にとってぐっとくるもの、心を動かされたものだけに、とことん時間を使ってもらう。そんな鑑賞の仕方もあり得ます

内田:そんな体験がつくれたらいいなあ。入館者が感想を記すノートがあるのですが、無言館が設立した頃は「絵に描かれている女性の着物の帯の色がすごく好きです。母の着物を想起させるような色でした」のような、とてもパーソナルな感想が多かったそうなんです。それが最近だと「ガザを救おう」「ロシアを許さない」といった戦争反対のメッセージがとても多いそうで。もちろん絵を観てそういう想いが湧き上がったのかもしれないけれど……。芸術だからできること、芸術にしかできないことは何だろうと考えてしまいます。

黒澤:無言館で絵を観てすぐに「ガザを救おう」という感想が出てくるお客さんは、もしかしたら反射が早いのかもしれませんね。見たもの、情報に対してすぐさま感想を返すのが癖になっている。たぶん140文字くらいで。

内田:あー、日頃からSNSでそういう訓練をしているから。

黒澤:環境の変化によって、人間の芸術との向き合い方やスピードも変わってきていると感じます。キュレーターとしては、人によって考え方も感じ方も違う、その違いこそが面白いという前提で仕事をしているので、どのような変化に対しても受けて立つぞ、と覚悟を決めています。

芸術にテーマやコンセプトは必要か?


内田:現代美術、特にコンセプチュアルアート(概念芸術)では、作品に込められた発想や観念を重んじますね。たとえばアイデアや意図がベースにあれば、水のペットボトル1本を何もない空間に置いて「これがアートです」と表現するのもありです。観る側はもちろんそれを自由に解釈しても良いのですが、多くの人が、作者のアイデアや意図、コンセプトとともに鑑賞しています。しかし作品単体でなく、作者の意図やコンセプトの説明があって初めてアートが成立する、ということを前提にしてしまうと、芸術というものの範囲がどんどん狭くなっていくように思います。

そのコンセプチュアルアートの対極にいるのが、美術家の横尾忠則さん。『BLANK PAGE 空っぽを満たす旅』でアトリエを訪れたときに、“絵を描くときはなるべく考えず、心を空っぽにする”とお話されていました。「無」の状態で、筆を握ってキャンバスの前に立ち、オートマティックに肉体が動いていく。“目指すところは、どんどん軽くなること”と語るのを聞きながら、横尾さんの芸術とはテーマやコンセプトから発するものではなく、とても身体的なものなんだと感じたんです。それでもいいんだよなあって。

黒澤:いいですよね。テーマやコンセプトは必要なのか。それを説明しないと、作品は作品として成立しないのか。鑑賞する側が、説明がないと作品を鑑賞できなくなっているのは、たぶん私たち美術界のプロを名乗る人たちがいろいろ説明しすぎなのだと思う(笑)。そんなことをしなくても勝手に受け取ってくれる、ということを、あるときから信頼しなくなったのかもしれない。ときには作品説明がないだけで、クレームを寄せるお客さんもいますからね。

内田:クレーム? もっと作品について説明してくれないとわからない、と?

黒澤:そうです。そして世の多くの親切な人たちによって、どんどん説明書きが増えていく。そのあおりはアーティストのほうも受けていて、今は美大などの大学教育でも「ちゃんと自分の作品を言語化して伝えられるように、プレゼン力を身につけなさい」と言われるのだそうです。でも言語化できるのなら、わざわざ絵は描かないんじゃないとも思うんだけど(笑)。

そもそも絵は「わかる」ものなのでしょうか。「この絵、知ってる。この前、あそこの画廊で紹介されていたよね」なんて、ちょっと知っていることを「わかる」と勘違いしているだけかもしれません。

芸術だって「なんか好きじゃない」があっていい

サテンワンピース「How are you guys?」/Kayano Tanida
内田:「わかる」を求めるというよりは、「よくわからないもの」を嫌厭してしまうのでしょうね。だから何かしらのlabeling(ラベリング)をしてほしい。その気持ちは共感できるところもあって、たとえば体調が悪いとき、原因がよくわからない状態が長く続くのは、つらいじゃないですか。そんなときに病院に行って「あなたはプレ更年期ですね」なんて言われたら、「そうなんだ、原因がわかってよかった!」ってスッキリしちゃうと思うんですよ。よくわからないものと向き合うのは、つらいし、怖いし、疲れるから。

ただそのスッキリした気持ちは、ひとまず「聞いたことのあるジャンル」にlabelingをしてもらえたことに安心しているだけ。診断が正しいのかはわからないし、わかったところで体調が劇的に改善するわけでもない(笑)。

美術鑑賞の場合は少なくとも「わからない」からといって何か大変な目に遭うことはないですから。いくらでも体と魂で遊んでいいんだという自由さを失わないでいたいですね。

黒澤:友達と服を買いに行ったり、レストランで食事をしたりするときには、それぞれが自由に、勝手に楽しむ。「もっと服について知らなければ」と悩むことはないはず。それなのに、なぜ美術館でアートを見るときは、そんなふうに気軽に遊べなくなってしまうのでしょうね。

内田:急にかしこまってしまいますよね。五感でとらえて「なんか好きじゃない」と思ったらその場から立ち去ればいい、くらいに自由なものであっていいのに。

私がイギリスで子育てをしていたときは、雨が降るととりあえず美術館に行けば時間を潰せるな、と思うくらい、美術館が身近な存在としてありました。作品の前で子どもが床に座って、スケッチブックに絵を描いていても、怒られるどころか、大人たちも絵を覗き込んで会話が始まったり。日本の子どもたちも、日常的に美術館や作品との距離を縮められてもいいのかなあと思います。

黒澤:⾦沢21世紀美術館では、金沢市内で学ぶ子どもたちが小学4年生になったら、全員招待しているんですよ。

内田:えー、素敵!

黒澤:開館から20年経ちましたが、開館当時に招待していた子どもたちが大人になり、今ではボランティアとして美術館を支えてくれたり、教師になって子どもたちを連れてきてくれたりしているんです。

内田:種植えが、今、芽吹き始めたんですね。

黒澤:「せっかくの機会だから美術教育をしよう」とか「感性を育てよう」とか、大人があまり構いすぎないことを大切にしています。子どものうちに一度美術館を訪れてみるだけでも、再訪のハードルはかなり下がります。ちょっと散歩しに行くくらいの気軽さで、芸術との出会いを楽しんでもらえるといいかなと

後編では、技術や訓練の積み重ねがなければ「芸術」とは言えないのか、国際アートアワード「HERALBONY Art Prize 2024」の審査を通じて黒澤さんがたどり着いた作品との向き合い方など、引き続き内田也哉子さんと「芸術」について哲学していきます。

>> 後編はこちら:みんなから「いいね」を集める作品なんて幻想だ。説明過剰な時代に芸術ができること


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>> サテンワンピース「How are you guys?」