人間、動物、ウイルス。命の重さは、違うのか? 《るんびにい美術館・板垣崇志|HERALBONY6周年記念講演》

HERALBONYが6周年を迎えた今年(2024年)の7月24日ーー。

これから築き上げていく100年の歴史において、社員の間で伝説となりうる20分間の講演が行われた。

長年福祉業界を牽引し、知的障害のある作家のアート活動を支えてきた「るんびにい美術館」のアートディレクター・板垣崇志氏による講演だ。

HERALBONYの前身の会社であるMUKUが創業された2018年。代表の松田崇弥は、一本のネクタイを握り締め、板垣氏にプロダクトを見せに行った。そこから、HERLBONYの歴史は始まっている。板垣氏なくして、今のHERALBONYはない。そんな彼が、HERALBONY初となる全社総会に招かれた。

彼が記念講演に選んだテーマは「命(いのち)」だった。

板垣氏が語った「いのち」の重み。なぜ彼は、HERALBONYの社員に「命」について考えさせたのか。そこには、私たちHERALBONYが人類にもたらす価値は何か、これから作り上げなければいけない世界、私たちの「使命」の本質があった。

この貴重な講演を全人類に届けたいという思いと、講演を聞いた私たちHERALBONYの全社員が感じた「覚悟」のようなものをお伝えしたく、講演内容の書き起こしコンテンツをお届けする。

命って本当にあると思いますか?

板垣崇志(以下、板垣):みなさんの笑顔に温かく見守られながらここに立つことができて幸せです。ありがとうございます。先ほど、社員のみなさん一人ひとりから発表があった「100年後のヘラルボニー」は、聞いていて本当に100年後の景色が見えるようで、私自身も夢が広がりました。

私は今日、命についてのお話をしようと思って、ここに来ました。

「100年後のヘラルボニー」が目指すものとして、ある社員の方から「すべての命が輝く世界」という言葉が出てきました。おそらく、私たちがさまざまな言葉を使って求めていること、描こうとしている世界というのは、その言葉にすべて紐づいているのだろうと感じました。

命とは「誰でも知っている言葉」でありながらも、人間は意外と、命のことをそんなにわかっていないんじゃないか。実は私、そんな気がしているんです。

一つ、こんな質問をしてみたいと思います。みなさんは、命って本当にあると思いますか?

「あると思う」「ないとは思えない。なぜかはわからないけれど、そう感じる」
「ないと思う。人間が想像するから、言葉として存在しているだけ」」

うん。いろんな意見がありますよね。これらを聞いて、すごく腑に落ちたり、何か言わんとしていることはわかる、って感覚もあるのではないでしょうか。完全に違和感を持って聞いた人は少ないんじゃないかなと思います。

「命って本当にあると思いますか?」と問われれば、やはり「命はあると思う」と答える方が多いはず。おそらく、世の中全体に同じように聞いたとしても、それに近い感じになるだろうと思うんですね。

では、命を見たことがあるという方? こう聞かれるとどうですか?

おそらく、「この目で見たことがあるか」という意味では「見てはいない」という考えが浮かんだのではないでしょうか。けれど「見たことがない」と言い切ってしまうのも違う気がする。この目で見てはいないけれど、見ている気もする。そんな感覚があったのではないかと思います。

確かにある。だけど、捉えられない。それが「命」

板垣:その感覚に言葉が与えられるとき、それが思想として固定されるとき、「命」という呼び名が生まれる。呼び名ができると、言葉として共有可能になる。なんとなく、でも深いところで感じている「あの感覚」というものに名前、言葉が与えられる。そんなことがずっと昔、命という言葉が生まれるときにあったのだと思います。

ただ、確かに「命の輝き」を感じはするけれど、何かチカチカ光るものをこの目で捉えたわけではない。誰かをそっと抱きしめて、その手のひらにぬくもりが伝わってくる、あの感じ。確かにそこにあったあの感覚は、「命のぬくもり」に触れていたのだろうと思う。けれども、それは私たちが普段言葉で使っている「命」の熱なのかと問われると、ちょっと迷ってしまう。

こんなふうに、実は命ってこれほど確かなものであるはずなのに、私たちが生きてここに存在することの一番の根拠であるはずなのに、とても捉えどころがないんですね。

確かにある。だけど、捉えられない。

これが、私たちの世界でいろんな命が重みを与えられたり、重みを奪われたり、大切にされたり、大切にされなかったり、ということの根本原因なのだろうなと思います。

先ほど、社員の方がとても深く考えたうえで「命というものはないのではないか」とおっしゃいました。つまり「命」と名付けようのあるもの、あるいは名付けられた「命」、またあるいは「命」という言葉。それは一つの概念であり、発明であり、発見である、と。そのようにおっしゃいました。けれど、この意見って「命の実感」というものを否定してはいないんですよね。「命と名付けられた、あれを知ってはいる」と。命があることを否定なさったわけではない。

「幽霊を見たことがある」と話す人はたくさんいます。身の回りでも「子どもの頃に見たことがあるよ」とか「私は普通に見えるよ」と話す方も珍しくありません。だけど「いや、だけどやっぱり幽霊なんていないよ」と言う人もたくさんいます。

「見たことがある」と言う人がたくさんいても「いやそんなものないよ」と否定する人もたくさんいる。そういうものがある一方で「命」は誰も見たことがないし、触れたこともない。だけど、誰もが「ある」と思っているんですね。

私、クジラ、ウイルス。命に違いはあるのだろうか?

板垣:この圧倒的な意味。私たちが命を知るには、私たちが実は命を知らないということを確かめる必要があるんだと思うんです。私たちはまだ命を知らない。だけど、私たち自身も命だし、全ては命だ。その事実。それを知るということが、出発点であり、すべての土台になると思います。

見ることも触れることもできない。だけれども、誰もが宿している命。人だけではなく、猫にも命があり、カブトムシにも命がある。ミミズにも、ミジンコにも、大腸菌にも。インフルエンザウイルスの中にだって命が宿っているかもしれない。

その命は、違う命なんでしょうか? 

人と大腸菌には、違う命が宿っているのでしょうか? 

違うとしたら何が違うのでしょう? 重さ? 色? 形? 匂い?

色も形もない、目で見ることも手で触れることもできない命に、どのような違いがありうるかということを考えたときに、「すべての命に違いはない」というあの耳馴染んだフレーズの本当の意味が浮かび上がってくるように思います。

このフレーズを、言葉として否定する人は、道徳的な意味でもおそらく少ないでしょう。今の社会で「命が平等なんてハッタリだよ」なんて言えば肩身がせまくなるので、そんなことを言う人は少ない。だけど、本当に本当に命というものを考えていくと、本当に違いのありようがないんです。

電子顕微鏡でなければ見ることのできないウイルスを生かしている命。「板垣崇志」という一人の人間を生かしている命。大きな大きな何十メートルもあるクジラを生かしている命。

クジラの命が私の命より2000倍、3000倍重い、大きい、ということはなさそうな気がします。ウイルスの命が私の何億倍小さい、そんなことも、やはりないのではないかと思うんですね。

私たちは本当は全く違いのない命を、あたかも違うものであるかのように扱う。そういう生物として今、生きています。

等しく扱うことができない「命」

板垣:本当はただ同じ命がある。私の形をした命があり、あなたの形をした命がある。ウシの形をした命があり、ミジンコの形をした命がある。

多分、それが世界の実像なんです。一方で「ああ、私と同じように、すべてかけがえのない大切な存在なんだ。何一つ命を奪うことはできない。だって、私も命を奪われたくないから」と考えたとして、そのような生き方を人間ができるか。

できません。

やってみたいですけど。やっぱり、できません。これは自然の摂理です。すべての命は等しいという事実はあるけれども、私たちがそれを等しく扱うことはできないのです。

だけど、その摂理に従い続けることを拒もうとする。それもまた人間です。

人間はその摂理にさえ、抗おうとしています。人間がこの1万年、千年、百年という時間の中で、何を目指してきたか。大きな大きなスケールで見ると、「誰もの命が尊い。誰もの命が大切だ」ということを、私たち人類の常識にしようと挑戦を続けていることが見えてきます。そんな途方もない、暴挙のような挑戦をする生物は、人間以外にはいません。

ある意味、そのすべての等しい生物が、何十億年という歴史をかけて、ついにたどり着いた挑戦です。「人間」という種を通して、実現しそうもないその理想に向かって、それでも実現しようとして、挑戦しようとする。それが「人」という生物です。

板垣さんとるんびにい美術館の皆さま。ヘラルボニーの社員と共に。

ヘラルボニーのアクションが人類の節目となる

板垣:私は以前、皆さんにこんなことをお話ししました。ヘラルボニーというこの企業のアクションが、この社会に生み出すものは、ビジネスの歴史の節目ではなく、資本主義社会の歴史の節目でもなく、人類の歴史の節目になる、と。

人間が、いよいよ本当にすべての命は等しい、ということを可視化し、物質化し、自分たちの生活の中に実装する。日常の中でそのことを確認し続ける。そんなライフスタイルを手にする局面が近づいていると思います。

ヘラルボニーはビジネスを通して、それを実現させることが可能です。HERALBONYが世界的なブランドとして届けることができるカスタマーエクスペリエンスは、「ユニークなアーティストが作った素敵なデザインの服をまとう、その幸せ」で、完結するものではありません。それは、通過点です。むしろそれは副次的なものです。

本当のカスタマーエクスペリエンス、ヘラルボニーが生み出しうる最大の価値を私はこのように考えます。

HERALBONYの服をまとって、街を行く。すると通りの向こうから誰かが歩いてくる。ダウン症の青年、あるいは自閉症の少女かもしれない。そのとき、自分と彼、彼女がすれ違うことを美しいと思える。そんな世界を美しいと感じられる自分がいる。そう感じられる自分を美しいと思える——。

つまり、美しい世界を自分が形作っているというその充足感。どんな命も脅かされないという、安心感をヘラルボニーは作ることができるのです。「服」を送り届ける、「服」を着る。「カバン」を送り届ける、「カバン」を肩にかける。それらを通じて、美しい世界を、あるいはそんな美しい世界を形作る自分を経験できる。確かめることができる。これが、ヘラルボニーの生み出す価値です。

まだ、どんな企業も世界中で実現していないことです。そして、これはビジネスでしか実現できないことだろうと思います。よいこと、ソーシャルグッドが、誰かのため、他者のためにと行動を起こせる人、自分以上に他者を大切にできる人しか行動できないのであれば、決してこういう変化は起こりません。

けれど、ヘラルボニーの事業は、自分のために行動を起こすことができるんです。自分が身にまといたいものを身にまとい、自分が壁にかけて日々眺めたいものを眺める。そのことを通して、よき世界を願っている自分を確認し、よき世界を形作る自分を自分自身で生み出そうとする。そういう動機とアクションを通じてならば、たくさんの人々がソーシャルグッドの創造に参画することができます。

ヘラルボニーによって始まる福祉の第2ステージ

創業日である7月24日に100BANCH(東京都渋谷区)で開催された「HERALBONY ALL STAFF MEETING」の様子。(左:板垣氏)板垣:これらの実現を、ぜひ、ヘラルボニーがこの先の100年間で。いえ、もっと短期間で。今、私が申し上げたようなことに関しては、この先の20年間で勝負が決まるはずです。そこで確立できなければ、おそらく機を逃します。そして、ヘラルボニーと同じ変化を起こせる何者かが登場するのに、また100年かかると思います。

ですので「ヘラルボニー100年史」の中に、ヘラルボニーがそれを実現したという1ページが刻まれることを、私は強く願っています。
最後に、ヘラルボニーには障害のある人の新しいインフラを構築するための新規事業を展開する「ウェルフェア部門」があります。私は、この事業が実際に動き出したとき、大きな変化が社会の中に生まれるだろうと思います。

ヘラルボニーが作る福祉サービス・福祉事業所は、「福祉サービス・福祉事業所」という閉鎖的なシステムの中で支援を提供するだけのものになるはずがない。間違いなく社会的アクションとしての福祉サービスになるはずです。

福祉サービスは、現状では障害のある方、特に知的な障害、重い精神の障害がある方、重い身体、心身の障害がある方の生活の基盤を大きく担っています。障害のある方一人ひとりの人生のあり方、選択肢が、福祉サービスというものの構造によって規定されると言っていい。つまり、「障害のある人の生き方」を、決定的に左右するプラットフォームなんですね。

現在ある「福祉」というプラットフォームは、まだ全く完成していないと思います。ヘラルボニーがこれから作る福祉のプラットフォームが、福祉の発展史の第2ステージになると思っています。

人の生き方、人生の基盤になる福祉サービスは、その方が社会の中でどう生きていくか、どんな関係性の中で結ばれた存在になるかをファシリテートします。どのような関係性で他者と結ばれていくか。その出会いの中でどんな体験を生み出すかを、福祉というプラットフォームが創造的にサポートできるのです。

一人ひとりの障害のある人、障害のない人、これまで何かギャップのあった関係性が、自然に結び合わされる。新しい社会の関係性というものをヘラルボニーは福祉サービスによって作り出すことができます。社会の中の人間の関係性をダイレクトに変化させられます。

ですので、私はヘラルボニーが福祉サービスに進出し、実際にそのサービス内容を実現する、その日も、非常に心待ちにしています。ここから、流れが完全に変わります。みなさんが立っているその場所が、人類の歴史の分水嶺です。