【平熱✕松田崇弥】「普通じゃない」を、もっと面白がってもいいんじゃない?

主に知的に障害のある子どもたちが通う「特別支援学校」。

多くの人にとってあまり馴染みのないそんな場所で、10年以上現役の先生を勤めながら、X(旧Twitter)のフォロワー数9.5万人という、圧倒的人気を誇る先生がいます。

名前は「平熱」。やさしくて、ちょっと笑える特別支援学校での日常を綴ったSNS発信が人気を集め、著書『発達が気になる子の育て方』は3万部を突破。障害の有無に関わらず、全人類の生きづらさへの共感を生み、一般の方にも数多くのファンが存在します。

様々な領域で活躍するオピニオンリーダーの皆様と「言葉の哲学」を紡ぐ連載「HERALBONYと言葉哲学」。第4回は、そんな平熱先生と、HERALBONYの代表・松田崇弥が「常識」という言葉について哲学していきます。

みんなが常識だと信じているものは、本当に「常識」なのか?

松田崇弥(以下、崇弥):HERALBONYには、平熱さんのファンの社員が多いんです。平熱さんの言葉は、優しくて本質的。そして、障害をもつお子さんや、そのご家族が本当に困っていることに寄り添っていらっしゃいます。

誤解されがちなのですが、知的障害といっても人それぞれ違っていて、必ずしもHERALBONYが契約している作家たちのように、絵を描くことや作品をつくることが得意な人ばかりではありません。足が速い人がいればそうでもない人もいるように、それぞれ能力や得意・不得意は違うもの。それぞれの違いと真摯に向き合い、どうすれば生きづらさを軽くしていけるのかを考えていらっしゃる平熱さんの言葉は、親御さんたちの救いになっているのではないでしょうか。

平熱さん(以下、平熱):ありがとうございます。私もHERALBONYのファンなので、今日はお会いできてうれしいです。6月に阪急うめだ本店で行われたポップアップ「HERALBONY ART COLLECTION」にも伺いましたが、どの作品もカッコよくて、最高にクールでした。

あと渋谷の「スターバックス コーヒー(SHIBUYA TSUTAYA 2F店)」に提供されたオリジナルアート(HERALBONY契約作家・藤田望人が渋谷とスターバックスをテーマに描いたオリジナル作品)にも痺れましたね。エネルギーあふれる色彩や作品の持つ熱量などが、バスキアを思わせるような。

崇弥:ありがとうございます。今日は平熱さんと一緒に「常識」という言葉について、考えていきたいと思います。

私は大学の卒業制作で「常識展」というインスタレーションを発表したんです。「常識ってなんだろう?」をテーマに、複数の作品をつくりました。たとえば私の兄は自閉症で知的障害がありますが、「◯時に家を出る」「◯時に電車に乗る」といった具体的な指示を書いた紙を、いつも持ち歩いています。

平熱:その時々にやるべきことを理解しやすくするための、視覚支援の一つですね。

崇弥:はい。その紙の指示通りに行動していくこと。それが、兄にとっての当たり前の日常であり「常識」なのです。そんな兄の生活を撮影して、ショートムービーにしました。他にもインドの水道水と日本の水道水を比べて、インドの「普通」と日本の「普通」の違いを可視化したり、みんなから“かわいそう”と見られがちなホームレス生活をしている方が、日々、花を植えて育てるのを楽しみにしている様子をポスターにしたり。そうした作品を通じて問いかけたかったのは、みんなが常識だと信じているものは、本当に「常識」なのか、ということでした。

私と文登は以前、親戚に「お前たち双子は、兄貴の分まで生きたらいい」と言われたことがあります。つまりそれは「障害者はかわいそうな存在で、人生を楽しむことができない」ということだろうか? それが本当に常識なのか? そんな違和感が、制作の根底にはあったのだと思います。

「自閉症」松田翔太の常識(撮影/編集:松田崇弥)

自分の思う「正しさ」の外側にあるもの

平熱:特別支援学校で働いていて、印象的だった出来事があります。画用紙に描かれた丸を指さして、「ここ塗ってね」と私が言った。すると、それを聞いた小学1年生の女の子が、私の「指」を丁寧に塗り始めたんです。

もちろん私としては「画用紙の丸の中を塗ってね」という意味でした。指をさして「ここ」と言えば、当然、さした対象のことを言っているというのが私の常識だった。でも、彼女の常識は違ったのです。彼女は、それは丁寧に、私の指を青色の絵の具で塗りたくってくれました(笑)。

自分の指が青く塗られていくのを見ながら、私は素直に嬉しかったんです。彼女が私のお願いに応えて、一生懸命塗ってくれていたのがわかったから。でも、同じ状況になったら怒り出す人もいるかもしれない。

崇弥:ああ、そうですね。「指のほうを塗るなんておかしい、間違っている」と言う人のほうが、ひょっとしたら多いかもしれません。

平熱:図画工作の授業は本来どうあるべきか、という視点で見ると、画用紙の中を塗るのが「正しい」、先生の指を塗るのは「正しくない」と思う人が大半でしょう。だけど、彼女の視点から見ると、先生から「ここ塗ってね」と言われたので、自分が「ここ」だと思うものを、塗った。それは「正しい」になる。

この“ずれ”を許容することが、すなわち常識を広げていくことなのではないでしょうか。いつも自分の尺度で「これは正しいかどうか」とジャッジしてばかりいると、自分の思う正しさの外にあるものが、どんどん受け入れられなくなっていきます。

“普通”じゃないことを、面白がってもいいじゃないか。

崇弥:多くの人が思う「正しさ」に則ることが、必ずしも価値を生むとは限りませんよね。8月に国際アートアワード「HERALBONY Art Prize 2024」の授賞式をパレスホテルで行ったんですが、私と文登が最後に挨拶をしようとしたら、作家たちがわーっと壇上に乱入してきたんですよ(笑)。

それは、多くの人にとっては「正しくない」ことだし、ひょっとしたら「空気を読みなさい」なんてたしなめられることのほうが多いかもしれない。でも実際はどうだったかというと、空気が読めないことで笑いが起きて、授賞式の場は大盛り上がりでした。不正解どころか、むしろ価値が生まれた。つまり、常識はずれは価値や才能につながっていく可能性のあるもの、とも言える。

パレスホテル東京で行われた授賞式の様子。

平熱:HERALBONYに「いきなり壇上に乱入してくるなんて、最高じゃん」と思える人たちがたくさんいたからこそ、その場が盛り上がったわけですよね。素敵です。

私が特別支援学校を好きなのも、おかしいことを笑ってもいいような雰囲気があるからなんです。以前、運動会のリレーの最中に、目の前を横切ったバッタを追いかけて、コースを外れていった子がいたんですよ。走っていて「あ、バッタだ!」と見つけてしまったから、バッタが気になって、バトンを繋ぐどころではなくなってしまった(笑)。大方、リレーでそんなことをしては絶対ダメじゃないですか。次の子はバトンが来なくて困っているし(笑)。でも、その場はみんなで大笑い。しょうがないよね、気になっちゃったんだもん、って。その「笑ってもいい」という感覚って大事ですよね。

リレーという競技のルールに従えば、走り出したその子の行為そのものは、ダメかもしれない。でも、その行為を“受ける”側が、その行為を否定せずに受け止めるだけの器があるかどうか。プロレスの“受けの美学”と通じるものがあるなと思います。技を受ける側の受け方で、相手の技の見え方が変わるんですよね。

崇弥:“受けの美学”か。なるほど。障害者がかわいそうなのではなく、周りの人たちの“受け方”が、障害者を「かわいそう」にしている。障害に限らず、ある常識からはずれると、途端に否定されたり、憐れまれたり、避けられたりしがちだけど、本来はもっと面白がっていいこともあるのかもしれない。

平熱:「面白がること」と「差別」が近すぎるのかもしれませんね。バナナの皮を踏んですべるって、面白いじゃないですか。でも障害者がすべったら笑えない、という人は結構多いような気がする。差別して嘲笑うのと、「いいね、それもアリだね」と受け入れて笑うのとは違うんですよね。

 

あえて「分ける」ことで救われる瞬間もある

崇弥:学校現場で、常識に囚われていると感じることはありますか?

平熱:私は特別支援学校にいるので、一般の義務教育の常識とは少し距離があります。いわゆる普通学級では学年ごとに学習目標が決められており、それに従ってカリキュラムが組まれるのが通例です。1年生で足し算と引き算、2年生でかけ算、3年生で割り算……のように決まっている。でも、それが当たり前になっていて、本当にいいのかな?とは思いますね。かけ算でつまずいた状態で割り算を習っても、たいてい理解できないじゃないですか。かけ算がわからない子が割り算の授業を受けても、ただ座っているだけの時間になってしまいます。

もちろん、そうした集団授業には良い面もありますし、今は一人ひとりのつまずきに寄り添うだけの時間やコストをかけられないという事情も。だから「こうあるべき」という常識に囚われやすい環境になってしまっている、とも言えるかもしれません。

一方、特別支援学校には、そもそも教科書がありません。その子が、何ができて、何ができないのか、何をできるようになったほうがいいのかを考えながら、一人ひとりに合わせて授業を組み立てていきます。

崇弥:それぞれの違いをふまえた学習ができる環境なのですね。しかし、世界の流れとしては、すべての子どもたちが同じ環境で一緒に学ぶ「インクルーシブ教育」のほうへと傾いていますよね。2022年、国連が日本に、障害のある子どもとそうでない子どもを切り離し、別々の環境で教育する「分離教育」をやめるようにと勧告しました。このことについて、平熱さんはどのように考えていらっしゃいますか?

平熱:難しい問題ですね。障害のある人、ない人と分け隔てることなく、同じ環境にいる状態をつくっていくことは、すごく大事だと思っています。一方、特別支援学校の教員の立場から見ると、分けることによって楽になる人、居場所を獲得できる人がいることも見逃せません。

というのも私のSNSには、「特別支援学校に入って救われた」「これまで保育園や幼稚園で『この子、何か違う』という視線をずっと感じてきたけれど、特別支援学校に入った途端、その違いが受け入れられた気がする」といったメッセージがたびたび届くのです。あえて分けることで、その場がシェルターのような役割を果たすことがある。だから、分けること自体は、必ずしも悪ではないのでは。

障害のある人を隠すのではなく、あえて注目が集まる場を

平熱:障害に限らず、たとえば学歴が近かったり、趣味が一緒だったりと、共通するものがある人同士のコミュニティのほうが過ごしやすいこともあります。分けること自体に良し悪しはなくて、問題は「分けたあと」なのだと思います。

崇弥:分けたことによって、差別や偏見を生むような隔たりが生まれるかどうか、ですね。

平熱:ええ。そこに「異なる常識を受け入れられるか、ずれを許容できるか」が関わってくるのだと思います。

ただ、障害のある人をまったく見ることなく育ってしまう、生活の中で触れ合う機会がないというのは良くないですよね。人は、よく知らないものを怖いと思ってしまうもの。そのネガティブな気持ちは、差別につながっていきかねません。

崇弥:教育の場をひとまとめにすべき、ということではなく、日常生活で「当たり前に障害者がいる」環境を、もっとつくったほうがいいということですね。たしかにHERALBONYを応援してくれている人たちに話を聞くと、HERALBONYの商品をプレゼントすると、特にお子さんたちから「知的障害って何? どんな人たちなの?」と聞かれることが多いそうなんです。最近は、障害のある人が学校のクラスにまったくいない子も多いんですね。

平熱:HERALBONYはイベントや授賞式を積極的に開催して、作家さんの紹介をされているじゃないですか。ああいう姿勢、とても素敵ですよね。作品を見て「素敵だね」「かっこいいね」だけで終わるのはなく、それを描いている人にも注目が集まるようにしている。障害のある人を隠す、見せなくするのではなく、人前に出たい人にはどんどん出ていってもらう。私たち教員も、そういう環境を、もっと積極的につくっていかなければならないと感じます。

後編では、松田代表の考えるビジネス界の常識やそれをアップデートしていくにはどうすればいいか、正しさや効率性だけではない価値をテーマに、引き続き平熱さんと「常識」について哲学していきます。

【平熱|プロフィール】

おもに知的障害をもつ子が通う特別支援学校で10年以上働く現役の先生。やさしくてちょっと笑える特別支援教育のつぶやきが人気を集め、Twitterのフォロワー数は9.5万人(2024年8月現在)。小学部、中学部、高等部のすべての学部を担任し、幅広い年齢やニーズの子どもたち、保護者と関わる。「視覚支援」「課題の分解」「スモールステップ」「見えないところを考える」など、発達障害やグレーゾーンの子どもたちだけではなく、全人類に有効な特別支援教育にぞっこん。障害の種類や程度にとらわれず「この子はどんな子?」を大切にし、子どもを恐怖でコントロールする「こわい指導」はしない。「先生も子どももしんどくならない環境」で子ども、そして関わる大人たちのニーズを満たす働き方を模索中。著書に「むずかしい毎日に、むつかしい話をしよう。」「発達が気になる子の育て方など。SNS:X(旧twitter)/ Instagram