「それが常識だから」で終わらせない。障害福祉が広げる、これからの教育とビジネス【平熱✕松田崇弥】
主に知的に障害のある子どもたちが通う「特別支援学校」。
多くの人にとってあまり馴染みのないそんな場所で、10年以上現役の先生を勤めながら、X(旧Twitter)のフォロワー数9.5万人という、圧倒的人気を誇る「平熱先生」。
やさしくて、ちょっと笑える特別支援学校での日常を綴ったSNS発信が人気を集め、障害の有無に関わらず、全人類の生きづらさへの共感を生み、一般の方にも数多くのファンが存在します。前編に引き続き、そんな平熱先生と、HERALBONYの代表・松田崇弥が「常識」という言葉について哲学していきます。
前編はこちら>> 【平熱✕松田崇弥】「普通じゃない」を、もっと面白がってもいいんじゃない?
ビジネスを回していく即戦力は“健常者”という常識
崇弥:企業の経営者同士で会話していると、残念ながら、事業を回していく労働力、特に即戦力として障害者のことを見ている人たちは、ほとんどいないように感じます。
ただ企業が障害者を雇う枠自体は、以前より増えているんです。障害者の法定雇用率(※)は2024年4月より2.5%になり、2026年7月には2.7%に引き上げられることが決まっています。でも、依然として雇用機会は少ないし、さらに中度~重度の知的障害がある方たちが働ける場というと、やはりなかなかないのが現状です。資本主義の仕組みの中で、ビジネスを回していくのは“健常者”というのが常識になってしまっています。
(※法定雇用率制度とは:民間企業や国・地方公共団体に一定以上割合で障害者を雇用するように義務づけた制度のこと)
平熱:それでいうとへラルボニーは、知的障害のある作家さんの売り上げで事業が成り立っているわけですよね。つまり障害者がビジネスの世界に存在しないどころか、作家さんたちに食べさせてもらっているということでしょうか?
崇弥:その通りです。よく「障害者支援のために活動していて、すごいですね」と言われるのですが、そうではない。むしろ私たちが「支援」を受けている側です。ある意味で、障害のある人に依存している会社なのです。
平熱:事業モデルそのものが、ビジネス界の常識をひっくり返しているわけですよね。労働力として見るどころか、障害者を中心に置いたビジネスモデルに挑戦しているのだから。そういうチャレンジをしているからこそ、へラルボニーはカッコいいんですね。
崇弥:障害福祉の世界では、これまでさまざまな社会運動が立ち上がり、障害者が当たり前に働ける環境を要求してきたことの積み重ねで、法律や制度が変わってきた歴史があります。へラルボニーがこうして活動できるのも、その時々で立ち上がり、声を上げた人たちがいたからです。そして今、私たちは、障害者がビジネスを回す主体となる、そんなビジネスモデルが成立するということを資本主義経済の枠組みの中で示そうとしています。それができれば、アートだけでなく、他の業種、業態にも波及していくはず。いずれビジネス界の常識も変わっていくと信じています。
障害の有無に関係なく、人の「できないこと」を知る重要性
平熱:ビジネス界では、障害者が事業を回していく力にカウントされていないのでは、という話がありました。少し話がずれるかもしれませんが、今って、障害者をまったく視界に入れないか、入れるときはスポットライトを当てすぎるか、の二極化してしまっているような気がするんです。
普段はまるでいないもののようになっているけれど、障害者について扱うとなったら、特別な存在として取り立てて、感動パッケージに入れてしまう。もっとナチュラルに、ただ「いる」というのが大事なんじゃないかなと。
崇弥:「障害者はかわいそう」と言われがちなのも、スポットライトを当てて感動のストーリーの主役として取り上げてしまうのも、障害者とは特別な存在であり、手を差し伸べる対象である、というのが常識になっているからですよね。
平熱:はい。もちろんサポートの手が必要なところはあるんですが、そこだけにフォーカスしている風潮が気になります。障害者の兄弟が「お兄ちゃん/弟はできないんだから、あなたがやってあげなきゃね」と言われる話をよく聞きますが、その「助けてあげないと」というムードは、特別支援学校にはさほどないんです。できることは自分でやってください、というある種ドライな雰囲気さえあるかもしれません。
崇弥:何ができて何ができないのかがわからないから、とにかく助けてあげなきゃ、と特別視しすぎてしまうのでしょうか。
平熱:人それぞれのできること、できないことを知るのは、とても重要だと思います。ただ、それはすごく難しくて、やはり経験値が必要です。私も、自分の学校の生徒に対しては「この子は、これができそうだな」と推測できるけれど、街で初めて会った人に対して、何ができて、何のサポートが必要なのかということは、全然わからない。
もっと踏み込んで言うと、特別支援学校では「自分は何ができて、何のサポートをしてほしいのか」を人に提示できるように練習するんです。障害のある人のほうから、周りの人に何をしてほしいのかを伝えられるように練習する。
崇弥:それは障害の有無に限らず、違いのある人たちが共に過ごす上で、とても重要な歩み寄りですよね。
平熱:はい。教員の役割として、子どもたちに「あなたは今これができて、これができない。でもこんなふうに人に頼めば、できないこともできるようになるんだよ」という視点を与えてあげるのが、とても大事だと思っています。助けを待っているだけではなく、みずから歩み寄ることができるんです。
たとえば聴覚支援学校では主に手話でコミュニケーションが行われますが、同時に、手話に頼らない練習もするのだそうです。一般社会では、手話が通じない環境のほうが多いですから。
崇弥:その歩み寄りは、双方で可能ですよね。へラルボニーでも、ろう者の社員が入ったことで、ろう者と聴者が同じオフィスで心地よく働くための様々な取り組みを始めました。もちろん社員全員が完璧に手話を使いこなせるわけではないのですが、挨拶などの最低限の手話は自然とできるようになりつつあります。さらに最近トークイベントなどでは、聴覚障害を持つ方の来場人数が増えています。接するスタッフも、少しでも手話ができるとコミュニケーションができて嬉しい。やはり当たり前に聴覚障害の方が「いる」というのがまずは大事で、その中で相互に歩み寄りを行っていくのが良いのだなと思いますね。
1番フォロワーが多いのは特別支援学校の先生、という誇り
平熱:私はよく「学校の先生がやりたいのではなく、特別支援学校の先生がやりたいんだ」とSNSに投稿するのですが、それはシンプルに、特別支援学校で先生をするほうが自由で面白いと思っているからなんです。
崇弥:平熱さんはどんな経緯で、特別支援学校の先生になったんですか?
平熱:特に志望したわけではなくて。教育委員会から「特別支援学校で働かないか」と言われて、はい、わかりました、と答えたのがはじまりです(笑)。でも、もともと黒板にバーっと文字を書いて一方的に教える、というような授業は向いていなかったと思います。小学校にも教育実習に行ったことがあるのですが、合唱コンクールの練習をしていた小学生に「僕は歌いたくないのに、声を出さないと先生に怒られる。どうして歌わなきゃいけないの?」と聞かれて、答えられなかったんですよ。
崇弥:理屈では説明できないですよね。「みんな歌うと決まっているから、歌いなさい」「それが常識だから」と力で抑えつけてしまうのが、従来の学校教育だった。
平熱:そうです。でも、特別支援学校なら「歌うのは苦手だけど、カスタネットならやります」という参加の仕方も認められるんです。できるだけ、その子がやりたいことをやらせてあげよう。どうしてもやりたくないことには折り合いをつけよう、といった考え方。そのほうが自由があって、私には合っていると感じました。
そして私は今、SNSという武器を使って、特別支援学校の「常識」を、一般の教育現場に侵食させにいっているんです(笑)。どう? 特別支援学校、最高じゃない?って。
崇弥:とても素晴らしいですね。
平熱:現役教員のSNSアカウントの中で、今、おそらく私が一番フォロワーが多いんです。特別支援学校の先生が一番人気だということが、特別支援学校に通っているお子さんや、その親御さんの誇りになっていたらいいなあ、と思います。特別支援学校、支援学級、通級指導教室、普通学級と、見えない序列を感じるんですよ。普通学級が一番上、のような。本当はそれぞれ選択肢の一つひとつなのであって、横並びのはずです。
正しさや効率性だけではない価値がビジネスに
崇弥:福祉施設の制度にも、見えない序列を感じます。そもそも名前が「就労支援施設」になっていますが、みんなが同じ「就労」を目指すべきなのだろうか? 特に「就労支援B型」と言われる領域では、平均賃金は1ヶ月で1万5千円程度です。空き缶つぶしなどの軽作業を一生懸命覚えてできるようになっても、月に5千円程度しかもらえません。それぞれ障害の違いがあるから、みんなが同じ頂を目指してステップアップしていくというのは、現実的ではない。一方で、それぞれの「違い」が生むユニークさにフォーカスすれば、それが価値を生み、ビジネスになることがあります。
平熱:へラルボニーでは将来的に、アート以外のアプローチで、障害者の働く施設をつくるような構想もあるのですか?
崇弥:はい、それはぜひ挑戦したいと思っています。たとえばオランダには、ダウン症を中心とした知的・発達障害を持つスタッフが運営するカフェチェーン「Brownies & downieS」があります。福祉施設ではなく、バリバリの営利企業です。私も行ったことがあるのですが、スタッフの方たちのコミュニケーションがユニークで、居心地が良いんですよ。けっしてマニュアル通りにはならないんです。私がコーヒーを頼んだら、何度も「カフェラテにしないのか。カフェラテにしたらどうだ」と言われて。たぶんその店員さんが、カフェラテを入れるのが得意なんですよ。それで私も折れてカフェラテを注文したんですけど(笑)。
平熱:面白いですね(笑)。コーヒーを頼んだらカフェラテをゴリ押しされる、という空間がビジネスとして成立している。正しさや効率性だけで判断せずに、想定外のコミュニケーションの“受け身”を楽しんでくれ、とお客さんに委ねているのでしょうね。
そういえば以前、ベトナムにある耳の不自由なスタッフで営業するサイレント・カフェ「Reaching Out Tea House」に行ったことがあるんです。筆談や手話を通じてオーダーを行い、店内はおしゃべり禁止なんです。ユニークな空間で、すごく良かったですよ。
崇弥:耳が聞こえない人が働くことが、「静寂を楽しむ」という価値につながっているんですね。それに、その店に通っていたら、ちょっとした挨拶くらいは手話でできるようになるかもしれません。それが歩み寄りにもなりますね。また見方を変えると、耳が聞こえないということは「音の要らない言語を使える」とも捉えられます。実際に聴覚障害がある方同士でスキューバーダイビングをすると、海の中でも普通に会話ができるそうです。
ある環境下では、人との違いが強みになる。「静寂を楽しむカフェって面白いね」と思う人がいれば、ビジネスにもなる。常識の外にある、光るものを「価値」にできるかどうかは、受け取り手次第。受け手としての“器”を広げていきたいですね。
平熱:そうですね。それこそプロレスの「受けの美学」、漫才の「ツッコミ」なんだと思います。常識の外側にあるものをいかに強く美しくおもしろく見せて、観客を沸かせていくか。既存のルールや常識をいつだって疑って疑って、いろんな「価値」をおもしろがっていきたいです。