この世界には「重い命」と「軽い命」がある。それは命に対する勘違いです。板垣崇志さんインタビュー【前編】
「こんなに素晴らしい作品なんだから、素晴らしい状態で打ち出すことができれば、障害のイメージを変えられるかもしれない」。
HERALBONYを支える福祉界の重鎮
同館のアートディレクターであり、長年福祉界を牽引してきた板垣崇志(いたがき・たかし)さんが、これまで代表の松田兄弟と積み重ねてきた対話の数々は、HERALBONYが事業展開していく上でもっとも大切な倫理的な道標(みちしるべ)となっています。
板垣さんから紡ぎ出される言葉は、「人間とは何か」「命とは何か」という難しい問いに対し、長らく思考を続けてきた者にしか語ることができない特別な力があります。
今回の「HERALBONY&PEOPLE」では、そんな私たちにとって大切な存在である板垣さんの、深い深い思考の海に潜り、彼の頭の中を少しだけ覗いてみたいと思います。
ボーダレス(境界がない)って何だろう?
板垣崇志さん(以下、板垣):るんびにい美術館は、2007年に花巻市の社会福祉法人光林会が開いた施設で、障害のある人たちが制作するアトリエやギャラリー、カフェとベーカリーを備えています。私はその10年ほど前から、光林会の職員の1人として障害のある人たちの創作活動に携わり始めました。現在は職員の立場は離れましたが、引き続き顧問として同法人のアート関連の事業に関わっています。
ーーいわゆるアール・ブリュットを取り扱う美術館ということでしょうか?
板垣:確かにるんびにい美術館にはアール・ブリュット、アウトサイダー・アートと呼ばれる作品を数多く展示しています。ただ、ここは単にアートを見るための美術館ではなく、アートを通じて「命に出会う」美術館であると考えています。
ーー詳しく教えていただけますか?
板垣:話は美術館が設立された2000年代半ばに遡ります。どのような美術館をつくるのかを検討する中で、現在の理事長の三井信義さんが企画書に「ボーダレスアートコレクション」と書いていたんです。三井さんは「ボーダレス」という言葉をなにげなく書いたそうなんですが、考えてみると確かに「ボーダレス」に悪い印象を持つ人はあまりいないですよね。
だから、「なぜ人はボーダレスという言葉にポジティブな印象を受けるんだろう」というテーマを掘り下げて考えてみたら、私たちが作る美術館の使命が見えてくるのではないかと直感し、まず「ボーダレス(境界がない)」という言葉について思索することにしました。
すべてのボーダーを取り去った先に残るものは?
東京のワンルームマンションに閉じこもってずっと考えていて、ふとある時、なぜ自分はこの皮膚の内側が自分だと認識しているんだろう、もしかしたら、内側以外の全てが自分だということだってあり得るんじゃないか。そんなふうに思って、はっとしたんです。
その瞬間、世界が裏返しになって、自分以外のすべてが自分の中に流れ込んできて、同時に自分は自分の外にはじき出されて、宇宙全体に広がって行くような感覚を覚えました。自分の内側と外側って実は同じことなんだと発見したんですね。まさにこれが「ボーダレス」なのではないかと。
板垣:有名な曲で「天国も地獄もない、国境もない世界を想像してごらん」という詞の歌もありますよね。何かと何かを仕切るものを取り払っていくと、その先には理想に一歩近づいた世界が拓けるのだというイメージを多くの人が共通に持っている気がしたんです。
一方で、それが私たちの実体験から来てるのかというと、必ずしもそうではないですよね。でも確かに私たちの魂のような何かは「ボーダーはないほうが良い」と何となく感じている。
例えば男女という性別。これも概念と概念の境目ですよね。そのボーダーを取り去ると、人間という概念が現れる。さらに人間と動物のボーダーを除くと生物が現れる。そうやって概念と概念の間にあるボーダーを取り去っていった最後に残るものは、いったい何だと思いますか?
概念も言葉もすべてが消えたところに残るもの。それは見えるものと見えないもの、過去も未来も現在もひっくるめて、宇宙のすべてということになります。私がそこで思い至ったのは、「命」と言っているものの本当の意味はこれなのではないかということでした。
すべての存在と現象がまるごと一つになったもの。それらすべてを成り立たせているエネルギーが命だったんだと。19歳の時の経験があったことで、私たちが「ボーダーレス」の果てに感じているもの、それは命なんだと理解したんです。
「命」と「命じゃないもの」の境目は明確には分からない
ーーHERALBONY6周年に際して、板垣さんがHERALBONYの全社員に向けて講演いただいたテーマが「命(いのち)」でしたよね。会社の歴史に残る伝説的な講演となりました。(※記事はこちら)板垣さんの言う「命」は、私たちが普段使っている意味での命とは違うのですね。
板垣:日常使いの言葉としては「カエルが生きてるよ、私は生きてるよ、それは命があるからなんだね」と表現されます。つまり生きているものの中に宿っているものであり、生きるという現象のエネルギーの源が命だと考えられている。
その意味では、自分やカエルにはあるけれど、テーブルや石にはないのが命だと思われていて、そこには大きな断絶がある。でも、断絶があると考えること自体が、人間の認識の落とし穴だという気がしたんですね。
――私たちが生きているものとそうでないものを区別する基準として「命」という言葉を使っているために、命の本当の意味を見誤っている、と。
したがって、宇宙が始まってからの百数十億年の連続した営みの中で、どこで命が生まれたのか、その前と後とを明確に分けることはできません。そう考えると、実はすべての始まりの時から命はあったとも考えられるのではないでしょうか。
宇宙が生まれ、地球が生まれ、様々な物質や生物が生まれるーーこの流転のすべてが命であって、狭い意味での「命」や「生物」というのは数多ある命の状態のバリエーションのうちのひとつに過ぎないのではないかと思うのです。つまり宇宙が生まれた時から、あるいは宇宙が生まれる前からずっとあるのが命なのではないかと。
私たちは理屈抜きに「ボーダレス」を求めている
板垣:現実の社会の中で、私たちは生きるためにさまざまな制約を作り、ボーダーを作り、分断し、誰かを重んじたり軽んじたりしてきました。誰かを排除し、分断するという行為は、自分が安全な内側にいる間は良いですが、同時にいつかどこかのタイミングで自分が外側に追いやられる危険性を秘めています。だから私たちは、本当はいつもどこかでおびえている。本当は、誰もが等しく大切に扱われる、ボーダレスな世界を求めている。
そして、私たちが「ボーダレス」を経験したことがないのに、何となく良いことだと感じるのは、「はじまりの命に戻りたい」っていう意思なのではないでしょうか。上下も右左も未来も過去も現在もない、何の区別もない状態にあった最初の命の状態。それを私たちは理屈抜きに知っていて、懐かしみ、憧れている。存在全体で記憶してるのです。そこには自由があり、平等で、不足も過剰もない完全な状態だった。
そう考えた時、みんなが命に帰りたがってるのであれば、帰りたいと思う人のその背中を押すような仕掛けを作りたいと考えました。それが、私たちにボーダレスへの思いを馳せさせる「命のミュージアム」、るんびにい美術館です。
私たちが異彩作家のアートに感動する本当の理由
板垣:おっしゃる通り、るんびにい美術館で生まれた作品や、皆さんの制作の様子を見た多くの人たちは、彼らの作品には何か特別な力があると感じるでしょう。
それは、彼らが頭で考えたことではなく、もっと深いところから「私はこうして生きて、ここに存在している」ということをそのまま形や色や線として映し出しているからだと思います。だから、彼らの作品に触れた時、命の絶対的な力強さを感じるのだと思います。
これは思考やアイデアというレベルではなく、もっと深い、魂なんていうものよりさらに深い、人間の底のマグマのようなところから出てきたものです。見ている人はそれを「命」という言葉や概念として認識はしていないかもしれませんが、その人が見ているものは、確かに「命」なのではないかと思うのです。小林覚さんや佐々木早苗さん、八重樫季良さんの作品を通して、無意識のうちに命に触れるという体験をしている。命がそのまま存在となり、存在が命そのままを表現している。「はじまりの命」に帰りたいと思う私たちは、その命を感じて心を動かすのではないでしょうか。
ーー彼らの作品を通して、私たちが本来潜在的に戻りたいと願っている「はじまりの命」に触れる体験をしている、と。
板垣:るんびにい美術館では、さまざまな切り口で、あらゆる命に触れる体験を提供しています。
例えば、ある写真家が十和田のブナの原生林に1週間泊まり込んで、森で起こる出来事を撮り続けた作品があります。木々は黙って立っているだけですが、写真の中で明らかに何か強い力でうごめいていて、私たちはそこに命を感じることができます。
またある時は、大阪西成区のかつて「ドヤ街」とも呼ばれた町で、高度経済成長を支えた元日雇い労働者の男性たちが詩や芝居、オブジェなどの表現に取り組む「釜ヶ崎芸術大学」という実践活動の場を紹介したこともあります。
板垣:私は、すべての命には「言い分」があると考えています。ドヤ街の男性たちの、知的障害のある人たちの、木々たちの、虫や動物、目に見えない微生物たちの、そしてもちろん私やあなたの「命の言い分」がある。生きとし生けるものの「命の言い分」を伝え続けることで、人々の中に命の感触が広がっていきます。「あれもこれも、みんな命だったんだな」という感覚が時間とともに膨らんでいくのです。
さまざまな命の言い分に触れ、体験を共有していくうちに、「みんな命なのであれば、こうありたいよね」というアクションや提案が通りやすい社会になっていくでしょう。根っこではみんな同じように「命に帰りたい」と思っているはずですから、潜在的にはすごく大きくて強いニーズが広がっているという感覚があります。
私たちは「重い命と軽い命とがある」と思っている
板垣:命をテーマにすることによって、理不尽な差別や偏見、搾取や殺戮、戦争といった命の不均衡に関するすべてのことに訴求できます。もちろん、障害のある人たちに対する差別の解消にもつながっていきます。
逆に言うと、障害に対する差別だけを扱っても効果は限定的です。なぜなら問題の根本は、私たちが本当は「重い命と軽い命とがある」と思っているということだからです。障害、人種や民族、宗教、性など、どのような属性に対してであれその差別を可能にしている根本原因は、「ある条件に当てはまりさえすればその命は軽く扱っていい」という感覚を、私たちが無自覚に、そして根深く抱いていることにこそあります。
これが、命に対する勘違いです。問題の本質は、障害や民族や性のような属性に対する認識よりも、そもそも私たちの「命に対する認識」にあるのです。この勘違いを修正しようとするならば、例えば障害のある人の命の問題だけを抜き出して扱うのは、効果的ではありません。表面的な属性への認識をいじるだけになるからです。ここに本質的な変化を作り出すには、常に「命全体」を扱う必要があります。命に関することは、命を丸ごと扱うことが勝ち筋だというのが私の考えです。
板垣さんは、私たちにいつも未知の発見を与えてくれます。それは、決して新しい発見ではなく、ずっと側にあったのに、誰もが見逃してきた何か。深すぎて光が届かず、暗くて見えなかったものを優しく照らしてくれるかのような暖かさがありました。
後編では、この世界に知的障害のある人たちが存在することの意味、そして医学的な進歩によって障害のある人がいなくなった社会に起こることについて考えを巡らせます。
企画展「異彩のはじまり」開催中
これまでさまざまなプロダクトや案件で起用された貴重な作品の数々を実際にご覧いただけます。ぜひ足をお運びください。
HERALBONY GALLERY 企画展
「異彩のはじまり」
会期:10/12(土)〜12/28(日)
住所:岩手県盛岡市開運橋通2-38 @HOMEDELUXビル4F
開廊日:木金土祝
時間:木金 12:00〜18:00
土祝 10:00〜12:00 / 13:00〜17:00
詳細はこちら
*板垣さんからのお知らせ
板垣 崇志
いたがき・たかし
1971年花巻市出身。社会福祉法人光林会「るんびにい美術館」アートディレクター。高校卒業後、上京し大学で神経心理学を学んだ後、岩手県内の大学で美術を専攻。自身の創作活動をしながらアルバイトで生計を立てていた1997年、光林会の三井信義さんの誘いで、光林会が運営する「ルンビニー苑」に参画。農作業や創作活動のサポートをするように。2007年の「るんびにい美術館」開館にあたって中心的な役割を果たし、開館以来これまでに60以上の展覧会を企画してきた。対人支援に携わる人たち向けの技能研修、福祉施設でのアート活動のコンサルティングのほか、言語や芸術表現による認知の変化を利用して社会課題にアプローチする自身の団体「しゃかいのくすり研究所」も運営している。